「自己中心思想」から始める
2021-01-14


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序章:幸福は「相対的な価値」(3)

 世の中に絶対的なものなどほとんどありません。
 しかし、ひとつだけ間違いなくあるとすれば、それは「自己」です。
「我思うゆえに我あり」の「我」。
 残りの人生を生き抜く上で、個人と社会のどちらかを基準点に選ぶとすれば、「個人」です。
 世の中がどれだけ理不尽でも、天変地異が襲ってきて思いもよらぬような不幸・不運に見舞われても、その中で生きている私やあなたという個人は、変えようがない、消しようがない「基準点」です。
 自分が可愛い。自分が大切だ。自分が好きだ。そういう「自己主義」を絶対的なものとして一旦認めてしまえば、ものの見方が定まってくるのではないでしょうか。

相対化の基準点を自分の幸福に置く

 自分の幸福を基準にして物事を考える──というと、利己的なやつだ、自分だけよければいいのか、日本人の美徳を忘れている……などなど、非難が殺到しそうです。
 しかし、きれいごとではなく、「まずは自分がここにいる」「その自分をいかに幸福に生かし、死なせるか」が価値基準である──というところからすべての事象を「相対化」していかないと、この混迷の時代、どんどん本質を見失い、自分も周囲も不幸になっていきます。

 「いや、私は自分よりも子供や妻のほうが大切だ」という人もいるでしょう。
 もちろんそれはそれで結構です。でも「子供や妻のほうが大切だと思う自分」がいるからこそ、子供や妻が自分の存在より大切だ、ということができます。
 自分がいなければ、子供や妻「のほうが大切だ」という相対化は不可能です。
 また、自分より家族のほうが大切だと思いこんでいる人が、往々にして自分の主義や嗜好を家族に押しつけて悲劇を招く例も少なくありません。自己をしっかり確立できなければ、他人を正しく愛すことはできません
自己主義と利己主義
 話を進めやすくするため、自分の幸福を見極め、そこに基準を置くことを「自己主義」とでも呼ぶことにしてみましょう。
 この「自己主義」は、自分に利することになればどんなことをしてもいいという利己主義とは違います。
 ちなみに日本語の利己主義は「社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方」(大辞林)というような意味で使われますが、これに対応するとされている英語の「エゴイズム」には、「我思うゆえに我あり」的な意味合い(哲学でいう唯我論、独我論)も含まれているようです。 
 自分さえよければ他はどうなってもいいというわがままではなく、「まず自分のことを基準に考える」という意味合いでの「自己主義」は、ある意味「絶対的」な基準点になるかもしれません。
基準点を間違えた幸福感は正しい自己主義につながらない
 といっても、自己主義と利己主義の区別は難しいかもしれません。
 覚えているでしょうか。政治資金を家族旅行や家族との会食、自分の趣味に使っていた都知事が糾弾され、辞職に追い込まれるという事件がありました。彼の論理では「自分や家族の幸福を行動の基準点に置くことが正しいなら、私がやったことは何も間違っていない。しかも法律に触れるようなことはしていないのだから、何の問題もない」となるのでしょう。
 しかし、政治というのは人々の幸福最大値をさぐる仕事です。政治家が仕事に対して抱く幸福感は、他人を幸福にする方法を探り出し、合理的、効率的に実行していくことにあるはずです。
 もとより人は社会的動物なのですから、自分だけが幸せになるということはありえません。自分にとって心地よい世界が必要であり、その世界には自分以外の人間が共生しているわけですから、自分が行う仕事によって他人が幸せになることも、自分にとっての重要な幸福要因となるはずです。

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