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政治家が人々を幸せにすることに職業上の幸福感を感じることなく、自分や家族の利益のために公金を使い、他人に不利益をもたらす、他人の不幸を増すことを平気で実行する──言い換えれば、単に自分と家族の上等な生活や、趣味、快楽の追求に幸福の基準点を置いてしまうというのは、正義不正義以前に、一種の病気、精神障害なのだと考えられます。
生き物が苦しむのを見て悦楽に浸る人がいますが、それは一般にはサイコパス、精神障害の一種と見なされます。
他人の迷惑や痛みを考えることなく、いきなり女性のお尻を触ったり、預かった他人のお金でギャンブルをしたりする人もまた、病気であるとみなされます。
となれば、政治家個人の資質を糾弾するよりも、病人たちに政治を任せていいのか、という問題であり、そういう事態を招かないようにするにはどのような改革を進めるべきかという議論こそが重要になるはずです。
自己の幸福を基準点にすることは「絶対的に正しい」のですが、幸福感の幅が狭かったり、幸福感を得るための基準点が間違っていれば、この大前提は成立しません。
幸福とは「相対的な価値」である
幸福の「基準点」について、もう少し考えてみましょう。
例えば、自分ではとても満足のいくことを成し遂げたとします。できないと思っていたことができたとか、今まで気づかなかったことに気づいて精神的な満足感を得られたとか、なんでもいいです。自分の中では百点満点、あるいはそれ以上の結果が得られたとします。
ところが、その結果に対して、世間はとても冷淡であり、評価してくれない、気づいてもくれないということはよくあります。そんなとき、多くの人は、満足感・幸福感から一転して、不満・不幸を感じてしまいます。
これは
個人の価値観が自分の中で完結しておらず、世間(人間社会)との「相対性」において左右されていることを意味します。
「自己満足」という言葉はたいてい悪い意味で使われますが、これも要するに、個人が感じている幸福感は世間一般の評価に照らしてみれば「相対的に」レベルが低いものだ、と言っているわけです。
しかし、自分の価値観が低レベルなのではなく、世間一般、今の世の中、時代風潮のほうが低レベルなのだと感じる人たちもたくさんいるでしょう。
自分個人の人間性や能力は努力で高められても、時代風潮を変えたり世の中の文化レベルを向上させることはできません。自分の幸福が世の中との相対性で決められてしまうとなると、絶望が深まるばかりで、身動きが取れなくなります。
世間(社会)との相対性を断ちきれば、自分だけの精神世界、自分だけの絶対的価値観で結果を評価するだけでいいので、幸福でいられるかもしれませんが、ほとんどの人間は、世間と完全に隔絶した仙人のような生き方はできません。
また、自分がたまたま生まれた時代、自分が置かれた社会、家族・家庭の違いによって、同じ才能や肉体であっても、まったく違う人生を送ることになります。こうした「環境との相対性」はある意味不可避で、運悪く戦争や大災害に巻き込まれたりする人生を送らねばならない人もいます。そうした「時代や時間軸との相対性」にはまったく抗えないのでしょうか。
相対の反対は「絶対」ですが、人生、生き甲斐、価値観といったものが相対的だとしても、死は絶対的なものだと誰もが思っています。
しかし、死が絶対的だというのは、自分の人生という時間に限定したときのことであって、自分が生きている時間の前後、気の遠くなるほどの時間軸を考えた場合、自分が生きた時間は、それを挟んでいる、より長い時間に相対して評価されるものかもしれません。
つまり、長生きしたとか、充実した人生だった、という評価もまた相対的なものです。
このように、自分が今いる環境、時間の中で、他と関連させることで初めて生きる意味や価値が生ずる──そういう縛りの中でしか生きられない生物──それが人間です。