小野田寛郎さんはサイコパスだった
2016-03-18


本を一気読みしたのは何年ぶりだろうか……というくらい面白かった。

本書は津田氏がゴーストライターを引き受け、そのことを後悔しながらも週刊誌連載を続けて、それが単行本化されるときにも様々なトラブルがあって……という体験談として書かれている。だから、一般的な読者には、津田氏の心情を細々と書き綴った部分などはうるさいと感じるかもしれない。
しかし、僕は津田氏と同業で、若いときにはタレント本のゴーストライターも経験している(どういうわけかそのタレントたちは今ではネオコンや保守政治家になっている)。
だから、津田氏の心情はよく分かるし、彼が書いていることに私情や「恨み節」がたくさん混ざっていても「嘘」はなさそうだということが理解できる。
また、彼はただ感情的に「小野田寛郎は……」と批判しているのではなく、きちんとその理由や背景を、事実に即して説明している。

最初に断っておくと、僕はこの本を根拠に小野田さん個人の人格批判や犯罪行為の断罪をするつもりはない。小野田寛郎という人物の生き方を通じて、当時の社会情勢や時代の空気をより正確に知りたいのだ。さらには、自分があの時代に生きていたらどうなっていたかを想像し、人生を見つめ直してみたいのだ。

また、なぜ小野田さんブームが起きたのか、彼が英雄的に取り上げられ、今でもほとんどの日本人の小野田寛郎像は「偉人」的なものとして根づいてしまっているのかについての分析も、自然とすることになった。
メディアによる意識的、無意識的なコントロールは、今も昔もあった。ただ、あの頃は今ほどは意識することがなかった。若かった僕には、他にやることがいっぱいあったし、小野田さん帰還のニュースは週刊誌ネタ的なものだった。
でも、還暦を過ぎて死を意識する毎日である今は違う。
知らないでいることが幸せなこともあるが、知らないまま死ぬのはつまらないとも思う。
この本は、まさにそうした部分でインパクトがある本だった。

以下、『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』禺画像]を読んで、特にインパクトのあった部分、興味深かった部分を並べてみる。

小野田さんは現地の住民たちを「人」と思っていなかった

ネット上の「小野田寛郎の人物まとめ」的な書き込みを見ると、基本的な部分での誤解がたくさん見うけられる。
代表的なのは、小野田さんらは戦後も任務を完遂するために島に潜伏して「アメリカ軍と戦った」という誤解。
その際の「銃撃戦」で、仲間が次々に殺され、最後に残った小野田さんはひとりでも「戦いを続けた」というようなもの。

まるで、大勢の武装した兵士を相手に、三八銃だけで応戦したゲリラ戦士のようなとらえ方をしている人が多いのだが、調べていくとまったく違っていた。
小野田さんらが殺した相手の多くは武器を持たない現地の住民であり、武装兵士ではなかった。
4人のグループのうち、赤津一等兵は最初にグループを抜け出して保護された。残った3人のうち最初に撃たれて死んだのは島田伍長で、1954年5月7日のことだが、このときの相手は、共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊だ。
このレンジャー部隊は残留日本兵掃討のために島に来たわけではなく、戦闘演習をするためだった。
演習していたところ、突然何者かに銃撃されて驚いたレンジャー部隊が応戦し、そこで島田伍長が撃ち殺された。

二人目の小塚一等兵はフィリピン警察軍に撃たれたが、その原因は、小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたことだった。

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