廃仏毀釈と狛犬史の断絶
2018-02-14


禺画像]
上の写真は1990年に福井県の三國神社を訪れたときのものだ。まだデジカメもなく、暗い境内で小さなフィルムカメラで撮っていた。
この神社にはたくさんの狛犬がいるのだが、中でも異様だったのはこの真っ二つに切られた(?)ような狛犬だ。
事故で首が落ちたとか、身体の一部が欠けたとかには見えない。人為的に「真っ二つ」に切断されているように見えて気味が悪かったのを覚えている。
もともと石に層理(違った成分などの境界面。堆積岩では泥や砂などの堆積物が堆積していった面)があって、風化が引き金でその面できれいに割れたのではないか、と教えてくださったかたがいるが、なるほどそうかもしれない。
その後も、各地で「不自然に壊れた」狛犬を見ることが何度かあった。台座から落ちて首が折れたとか、そういう例はたくさんあるが、どう見てももっと不自然に、何かで叩き壊されたのではないかとか、切断されたのではないかと思えるような壊れ方だ。
そういう狛犬を見るたびに、なぜこういう壊れ方をするのだろうと、もやもやしていたのだが、後に、明治新政府が発令した神仏分離をきっかけに起きた廃仏毀釈の嵐の中で、仏像などと一緒に狛犬も被害にあう例があちこちであったらしいことを知った。

神仏分離令はそれまでの慣わしであった「神仏習合」の緩さを改め、天皇の神格化を神道を利用して進めようとしたものだった。明治政府は寺社打ち壊しや仏像などの破壊まで意図していなかったとされているが、これを受けて、各地で庶民による寺院、仏像、仏堂、仏塔、経典などの破壊、処分がヒステリックに行われていった。
庶民による破壊活動がここまで激化したのは、それまで幕府が寺請制度によって民衆を管理してきたため、特権階級のようになった仏教関係者が腐敗したことへの民衆の反発があったともいわれている。文字通り「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図だ。

狛犬は今では「神社にあるもの」と認識されているから、廃仏毀釈には関係なさそうに思えるが、ルーツが中国獅子であり、仏像などと同列に見られたために「神聖なる神社にこのような獣の像があるとはけしからん」と、破壊、廃棄の対象になった例もあったのだろう。
長州とともに明治新政府の中心となった薩摩(鹿児島県)では、1066あった寺院すべてが廃寺とされ、僧侶2964人が還俗させられたという。
その鹿児島にあるいちき串木野市冠嶽では、道の両脇に仁王像と狛犬が置かれているが、市の教育委員会が設置した案内看板によれば、 この仁王像は、現在地と神社との中間に仁王門があり、そこにあったといわれている。明治初年の廃仏毀釈時に、この仁王像も壊され、やぶの中に捨てられていた。それを昭和34年に、土地の有志たちが復元し、現在の位置に建てたものである。
(略)この狛犬も廃仏毀釈時に、一部壊されているが、像形は、まだしっかりしている。
と説明されている
同じような例は他でも見られる

僕が1990年に三國神社を訪れたときに見た「真っ二つの狛犬」も、同じような被害にあったのだろうか。
三國神社は越前だが、越前においても、明治4(1871)年、福井藩が84もの寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出た。白山修験道の拠点だった平泉寺も、仏堂、仏像、仏具などを破壊され、白山神社に改変された(『福井県史』通史編5 近現代)という
「真っ二つの狛犬」が、その渦中であのような姿にされてしまったのかどうかは分からないが、全国で「不自然に壊れた」狛犬を見るたびに抱く違和感のスタートになったので、今も強烈な印象が残っている。


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