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狛犬を見続けていると、江戸期の狛犬は結構残っているのに、明治になった途端、パタッと狛犬が建立されていないことに気がつく。再び奉納されるようになるのは明治20年代くらいからだ。明治一桁代建立の狛犬というのはほとんどない。あったとしても、江戸期の狛犬をへたくそに模したようなものが多く、銘品と呼べる力作や新種の狛犬はまず出てこない。
拙著
『神の鑿』の最後には利平・寅吉・和平の年譜も載せてあるが、それを見ても、
慶應元(1865)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳 願主石工菅田庄七
明治20(1887)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳
↑この間、20年以上、作品の記録が空白なのだ。
明治初期、廃仏毀釈を皮切りにして、いかに庶民文化がつぶされ、停滞したかを物語っているかのようだ。
そこで、改めて「明治維新」前後の歴史をおさらいしているところだ。
森鴎外と脚気
その作業をしていて、ひょんなことから森鴎外(森林太郎)が陸軍兵士数万人の死に関係していたと知った。
ネット上にもたくさんの関連記事があるが、中でも
、⇒これなどはとてもよくまとまっているのでご一読を。
陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。
全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2〜6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。
(略)
明治27〜28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。
明治37〜38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。
日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。
(医療法人和楽会 フクロウblog 大井玄先生のコーナー
「病と詩(11) 軍医森林太郎と脚気」 より)
日清・日露戦争において、直接の戦死者よりも脚気で死んだ兵士のほうが多かったというのは、学校で学ぶ日本史には出てこないと思う。
上記のブログやWikiの詳しい解説などをもとにまとめてみると、
- 全陸軍の疾病統計調査(明治8(1875)年開始)によれば、明治17(1884)年には4人に1人以上が脚気にかかり、致死率は約2〜6%だった
- 海軍医務局長・高木兼寛は、イギリス留学中にヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのではと推論し、周囲の猛反対、猛反論を押し切って明治18(1885)年以降、海軍の兵食をタンパク質の多い麦飯に切り替えた結果、海軍での脚気発症をほぼ根絶させた。
- 一方、陸軍では、陸軍一等軍医森林太郎(森鴎外)が明治18(1885)年にライプチヒで執筆した論説「日本兵食論大意」を根拠に、陸軍軍医総監・石黒忠悳らは「脚気伝染病説」を信じており、白米を基本とした兵食を変えてはならないと主張した。