「戻らない」という戦略
2013-07-03


//もうひとつは、町外コミュニティがどういう形になるにせよ、その前提として、アイデンティティが大事だと思うんです。まずは、「浪江町で育ったんだ」とか、「浪江町民なんだ」、「浪江はこういうところだったんだ」「そこが故郷なんだ」というアイデンティティを確立すべきだということです。
 そういう共通の意識をもって各地に分散するのと、アイデンティティを忘れ去ってしまってバラバラになってしまうのでは、全く意味が違うと思うんですよ。
 つまり、アイデンティティを確立する事業。「浪江という故郷はこういうところなんだ」という記録を残すことです。その記録を見れば記憶が呼び覚まされ、思い出されてくる。そういうことを事業として確立させるべきだろうということです。
 町に付いて行くもよし、都合のいいところに移住するもよし、だけど、「われわれは浪江に育ったんだということを忘れるなよ」という一点でつながる。それをもってそれぞれの場で、それぞれの生活を確保していくということです。 //


↑この後半部分は、僕が1月に東京で飯舘村の菅野村長と公開シンポジウムをしたときに言ったことと同じ趣旨。

飯舘村は残念ながら、汚染度合いが高いエリアについては、我々が生きている間には元の暮らしができる場所にはならない。 除染など無理。
であれば、森をそのまま自然保護区として守り、散って行った村民たちが新しい生活を始めた場所でそれぞれ「までいの心」を日本中に伝えていく。
伝えながら、飯舘という心のブランドを守り、育てていく。
そうすることで、次の世代、あるいは何世代か後、まだ生まれていない世代の人たちが再び「聖地として守られてきた飯舘」に入って、再びまでいライフを築いていけるのではないか……。

……僕がそう言ったところ、すぐさま菅野さんに「反論します!」と言われ、話が噛み合わないまま時間切れになってしまった。

この鈴木さんへのインタビュー記事を読んで、やはりまともに考えればそういうこと(離散を認める。その上で故郷への帰属意識をいかに持ち続けるかが大切)だよなあ、という思いを強くした。

幸いにも汚染がひどくなかった川内村では、事情はまた別だ。
僕は2011年の4月末に村の自宅に戻り、11月まで「全村避難」の村で普通に暮らしていた。
そこには郵便も配達されたし、クロネコもやってきたから、アマゾンで買い物もできた。
ガソリンスタンドもコンビニも再開して頑張っていた。
だから、「全村避難」の村で、それまで通りの暮らしが普通にできていたのだが、そのことは村にとっても県にとっても国にとっても「外に知られたくない」ことだった。

そんな中、5月の「一時帰宅ショー」のときに村に来ていた村長を見つけて、一緒に飯を食ったとき、村長にはこう言った。
「もう、悪いお友達(原発立地自治体の町長ら)とは縁を切りなさいよ。これからは小野町など、中通り側を向いて再建するしかないでしょう。原発に頼らない新しい村作りを始めなければダメですよ」
……と。
でも、ちょっと婉曲的に言いすぎたからか、もしかしたら伝わらなかったのかもしれない。もっともっと明確に言えばよかったと後悔した。

川内村は汚染の度合から言えば、地域としていくらでも再生できるレベルだ。福島市や郡山市よりも汚染度合は軽度なのだから。
ましてや、完全に人が住めなくなった浪江、大熊、双葉あたりに比べたら事情が違う。水道もない。高校もない。スーパーもない。大きな工場や雇用を見込める企業もない。最初からそういうものはない村だったのだから。
浪江町などとはまた別の戦略、そして今までのやり方と決別する勇気と哲学が必要だった。
ところが、原発人災を逆手にとって、今までなかったものを作ってもらおう、つぶれてしまった浜通りの町に代わって今度はうちの村が金をもらう番だ……というような戦略になっているように思える。

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