8.15と3.11はつながっている
2013-12-14


前回書いた漫才ネタとしての「かわいそうな象」の話の続き。

フェイスブックにこのことを書いたら、現役の教師のかたから非常に深く、興味深いコメントをいただいた。
彼はこの漫才をリンクをたどって見たそうだ(リンク先は準決勝の時のもので、決勝では若干違っていたが、基本的には同じネタ)。
その上で、こんな風に書いている。

//彼らはおそらく小学校の時に『かわいそうなぞう』を読んで心を痛めた体験を持っています。そういう体験が客席と共有されているはずだという前提のもとに、ブラックユーモアにもならない漫才を、そうであることを半ば自覚しながら、会場にはいない誰かに投げつけているように私には見えました。彼らは『ごんぎつね』も読んでいるようでしたし、たぶん『ちいちゃんのかげおくり』や『一つの花』なども読んでいます。そして、学校教育の場で、そのような物語に情緒を揺さぶられ、動員される体験を何度か持ったに違いありません。そしてもしかしたらそういう出来事こそが、「この子たちが戦争の恐さ、醜さ、理不尽さを肌で感じること」を困難にしてしまったのかもしれないと感じました。そうだとしたら、そういう構造こそが恐ろしいのだと思います。//

……これを読んで、あ! と思った。
モヤモヤしていたものの一端が見えたような気がした。

で、この最後の

 //学校教育の場で、そのような物語に情緒を揺さぶられ、動員される体験を何度か持ったに違いありません。そしてもしかしたらそういう出来事こそが、「この子たちが戦争の恐さ、醜さ、理不尽さを肌で感じること」を困難にしてしまったのかもしれないと感じました// 

 ……という部分を、自分がきちんと理解できているかどうか自信がないまま、何度もこのコメントを一字一句読み返してみた。
「動員」という言葉をどう解釈するのかで少し迷っていたのだが、多分読み間違えていないと思う。

これとは一見逆のように思えるかもしれないが、最近こんな体験もした。
昨日まで僕が知らない童謡やらアニメの主題歌のようなものを大声で歌っていた近所の子が、小学校にあがってすぐ、『君が代』を大声でニコニコしながら歌い始めた。
近所にとどろく『君が代』。一瞬ドキッとする。
もちろん子供たちはなにも考えていない。単に「小学校に入って最初に習った新しい歌」を覚えたので大声で歌っていたにすぎない。

そのことを思い出して、さらにはこの「共通体験に動員される子供たち」というコメントを読んで、こんなことを想像した。
もしかすると、『かわいそうな象』を教室で読まされた体験が子供の成長と共に微妙に変化していき、後にそれをお笑いネタにして「会場にはいない誰かに投げつける」ようになるのと同じような「構造」で、小学校に上がって最初に覚えさせられた歌が『君が代』である子供たちの中には、成長して教師となり、式典の国歌斉唱で口を真一文字に結ぶ人が出てくるのかもしれない、と。

もちろん、これは考えすぎかもしれない。
子供が作る漫才ネタにはサザエさんものやキン肉マンものなど、アニメや漫画のネタが多い。元を見ていない大人には何が面白いのか分からないが、若い世代の間では大うけしているように見える。
それと同じような感覚で、単に「かわいそうな象」や「ごんぎつね」を自分たち世代の共通体験の材料として利用したかっただけなのかもしれない。
それならそれで、もっと寂しいのだけれど。

……とにかく、教育の難しさというものを改めて知らされた思いだ。

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[ガス抜き話]

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