巨大防潮堤建設が日本の文化・産業を破壊する
2013-02-19


田老地区の死者・行方不明者229人/津波被災人口3000人/地区人口4436人 
被災者の7.6%が死亡・行方不明

鍬ヶ崎地区の死者・行方不明者65人/津波被災人口3200人/地区人口5400人
被災者の2%が死亡・行方不明



上のデータを最近知った。
田老(たろう)地区というのは、岩手県下閉伊郡に置かれていた田老町(2005年に宮古市に合併)のあった場所。
3.11で甚大な津波被害があったことで有名になった。
田老町は稀に見る巨大防潮堤を築いてきた町としても有名だ。
1958年(昭和33年)3月に最初の防潮堤(高さ10m超)が完成。その後も増設を続ける。
1960年(昭和35年)5月、チリ地震による大津波が襲来したが、防潮堤が人的被害ゼロにとどめた。
1979年(昭和54年)、長さ2433m・高さ10m(海面から)の大防潮堤が完成。

Wikiの田老町の項目を読むと、興味深い記述がたくさんある。以下、Wikiの内容をまとめてみる。

1611年(慶長16年=江戸時代初期)に起きた慶長三陸地震津波で村がほぼ全滅

1896年(明治29年)の明治三陸津波では、全村345戸のすべてが流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡
この津波後、村では震災義援金で危険地帯にある全集落を移動することにしたが、義援金を村民に分配しないで工事に充てることの是非や工事の実効性に村民から異論が続出し移転計画は中断。元の津波被災地帯に再び集落が作られた。

1933年(昭和8年)の昭和三陸津波では、全559戸中500戸が流失。死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32% =三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪)。
学者、内務省(当時)、岩手県当局は集落の高所移転を村に進言。移転のための低利の宅地造成資金貸付などの措置もとられたが、当時の村長・関口松太郎以下、村当局は、高所移転だけでなく、防潮堤建造を中心にした復興計画を主張。大蔵省から出た被災地高所移転の宅地造成貸付資金を借入して防潮堤工事に充てた

第一期工事は1934年(昭和9年)に開始。高台移転案を主張した国や県も折れ、防潮堤建造費用負担に同意。全面的に国と県が工費を負担する公共事業として進められたが、日中戦争の拡大に伴い資金や資材が枯渇。1940年(昭和15年)に工事は中断。
戦後、再び町をあげて関係官庁への陳情を繰り返した結果、1954年(昭和29年)に14年ぶりに工事が再開された。
起工から24年を経て、1958年(昭和33年)に工事完了。全長1350m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面高さ10m という大防潮堤が完成した。
その後も増築が行われ、1966年(昭和41年)に最終的に完成。総延長2433mのX字型の巨大な防潮堤が城壁のように市街を取り囲んだ。総工事費は1980年当時の貨幣価値に換算して約50億円。

1960年(昭和35年)に襲来したチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たにもかかわらず田老地区の被害は軽微にとどまった。

しかし、2011年3月11日の東日本大震災に伴い発生した津波では、海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊。「津波の高さは、堤防の高さの倍あった」との目撃証言もある。市街は全滅状態となり、地区の人口4434人のうち200人を超える死者・行方不明者を出した。「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もある。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているという。

防潮堤建設においては、現在とは逆で、国や県を説得する形で村(町)がごり押ししたという点に注目したい。

防潮堤のない町のほうが死者は少なかった

一方の鍬ヶ崎(くわがさき)地区は、同じ宮古市内にあるが、防潮堤はなかった。
防潮堤を造ると、地区の基幹産業である漁業への影響が大きすぎるという判断からだった。

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